








創業者、北野留三郎が、
先代「冨士屋製菓」(大正2年創業)に奉公にあがる
創業者である北野留三郎は、明治38年(1905年)富田林の地で出生後、幼くして、当時、天王寺に拠をかまえていた業界第一人者の冨士屋製菓(大正2年創業)、
下條明治郎氏のもとへ丁稚奉公へあがる。 そこで、師の指導のもと、豆菓子の製造技術の習得、それをさらに発展させ、 一人前の職人として業界内で著名となり、全国各地はもとより、当時の満州の地まで、技術指導をしたと言われている。
昭和に入りますます隆盛を誇った大阪の豆菓子業界であったが、太平洋戦争が 近づくと共に、商売の環境も厳しくなり、特に、豆菓子に必要な原材料等の 入手困難から、下條氏の冨士屋製菓も、休業状態におちいっていた。
初代留三郎も、当時の冨士屋製菓を去り、生まれ故郷の南河内に戻り、 戦中の軍需工場である鉄工所に勤務し、生計をたてていた。
終戦によってその鉄工所も廃止となり、職を失った留三郎は、
もう一度豆菓子つくりで再起を決意し、師である下條氏に相談のところ、 独立を強く激励され、昭和22年生まれ故郷である富田林須賀の地で、 細々ながら、豆菓子製造を再開させる。
初代留三郎の独立にあたり、先代下條氏より「冨士屋製菓」の屋号継承を認められ、業界の名門である冨士屋製菓の暖簾を引き継ぐこととなった。

昭和28年「戦時中、一時中断するも、
製造を再開し、「冨士屋製菓」の商号を引き継ぎ、
会社を創立する
上記の通り、屋号冨士屋製菓を先代から引継ぎ、豆菓子の製造を軌道に乗せ、昭和28年1月27日付けをもって社名を「㈱冨士屋製菓本舗」として、会社を登記し、実質的な創業として更に業務拡大にまい進する。 おそらく、昭和20年代後半頃、ようやく終戦後の混乱もおさまり、豆菓子製造の原材料である落花生、小麦粉、砂糖、寒梅粉などが少しずつ入手可能な状態に戻ってきたと考えられ、やっと商売が本格的に軌道にのる環境が整ったと思われる。それでもまだまだ生産設備は貧弱であったと想像できるが、 戦後の復興も本格的になり、庶民のお菓子に対する需要はかなり旺盛であったと推察できる。


昭和40年代 代表商品「豆味さん」が
ヒットし、業務を大幅に拡大する
日本の経済復興とその次のいわゆる高度経済成長に時代が来ると、 庶民の購買意欲も旺盛となり、嗜好も多様化する中で、菓子業界全般的にかなり大がかりな需要の拡大がみられた。
各メーカーもこの時期に大幅に生産設備の拡充をはかったものと 思われる。
豆菓子業界で言うと、旺盛な需要に支えられ、
この頃から本格的に海外産(中国、南アフリカ、アルゼンチンなど)の原料落花生が輸入されるようになり、旺盛な需要と拡大する供給の好循環が 生まれたと思われる。
そんな中、弊社は、従来の雀の玉子のような落花生全体を 寒梅粉(もち米)でくるむタイプの豆菓子(業界内で厚掛け)ではなく、落花生の表面に薄く寒梅粉をまぶし、 ところどころ落花生の表面がみえているタイプ(薄掛け)の豆菓子、 「豆味さん(とみさん)」を業界に先駆けて発売。
これが大ヒット商品となり、 関西一円を中心に非常に多くのお客様に愛されることに。


昭和52年 全国菓子博覧会にて
「名誉総裁賞」を受賞。あわせて、
2代目社長 北野啓史が代表取締役に就任
昭和52年 上記「豆味さん」の大ヒットによる業界での貢献により、4年に1度開催される全国大菓子博覧会において、「名誉総裁賞」の受賞の栄誉を賜る。 それに合わせて、創業者の留三郎から、 2代目の後継者、北野啓史へと代表取締役がバトンタッチされた。
この頃の業務拡大に伴い、創業からの機械類も老朽化、工場内も手狭になってきたので、順次、機械類の増設、工場建屋の建て増しなどの改築を行い、生産の拡充に努めていた。


昭和60年代 生産設備の充実により、
欧州向け輸出が順調に伸長する
昭和50年代後半から、60年代初頭(80年代後半)にかけ、米菓メーカーの呼びかけにより、海外輸出、特に欧州方面への輸出の機会が 増え、年々出荷数が伸長する。
欧州特にオランダ中心とするマーケットで、 日本製のあられ、豆菓子が人気を博し、オランダの大手各スーパーでは Oriental cracker mix (オリエンタルクラッカーミックス)として、その他のナッツ類と同列のカテゴリーで販売され
好業績をあげることができた。
元来、欧州人は、ピーナッツ、アーモンドなどのナッツ類を、 ビール、ワインのおつまみとして、非常によく食べる習慣があり、 それに合わせて、新しい味の日本製のおかき、豆菓子が彼らの嗜好に新商品として受け入れられたと思われる。


豆菓子の草創期について
上記のいわゆる掛け豆の製造者は、現在、大阪では約4、5軒、全国的にみても約20社程度と非常に企業数が少なくなってきており、その草創期の事情について知る古参の業界人も数少ないのが現状である。
その中で、残された資料や伝聞によると、豆菓子(掛け豆)は、大正時代初期から始まったと言われている。
その中でも大阪、広島が製造の中心地として栄え、新規の数多くの豆菓子屋が現れたと言われている。
大阪では、弊社のルーツである下條明次郎氏の冨士屋製菓が有名であり、下條氏は、当時まだ未発達な豆菓子の製造技術に様々な工夫を考案し、技術の革新につとめ、豆菓子の品質と味覚の向上に寄与した。
一方、広島では丹波屋と言う屋号の会社が、ピーナッツの販売で隆盛を極め、その他、大勢の新興メーカーが輩出されたと言われている。
一大生産地、大阪では大正8年に早くも、豆菓子の組合が設立されに至り、その後、菓子工業組合の傘下に加入するも、戦中は一時中断し、その後、終戦後には復活し、往時の隆盛を築いたと言われている。

豆菓子の定義と分類
落花生(ピーナッツ)を中心に、アーモンド、カシューナッツなどのナッツ類を、焙煎、揚げる、茹でる等の加工を加えた食品、および菓子類のことを言う。
その中で、弊社のつくる豆菓子は、業界では掛豆(かけまめ)と呼ばれ、落花生などの実に対して、寒梅粉(もち米澱粉等)を、砂糖水でまぶし、焙煎、味付けをほどこした商品をさす。
熱加工の煎る、揚げる、茹でるは、それぞれ使用する機器が違うため、業界内各社でそれぞれ分業化されている。
弊社は、今では数少ない掛け豆だけの専業メーカーとして、業界で最も古い豆菓子メーカーとしても地位を保っている。


| 会社名 | 株式会社冨士屋製菓本舗 | |
|---|---|---|
| 所在地 | 大阪府富田林市須賀2丁目20-2 | |
| 電話番号 | 0721-52-2966 | |
| 代表者 | 代表取締役 北野登己郎 | |
| 業務内容 | 落花生、大豆、ナッツ類を素材とした豆菓子の製造加工、販売 | |
| 年商 | 1億5千万円 | |
| 従業員数 | 20名 | |
| 取引銀行 | りそな銀行富田林支店 / 三井住友銀行河内長野支店 / 北陸銀行大阪支店 | |
| 代表商品 | 雀の玉子、味くらべ、豆味さん、お炭つきの落花生、ビーンズ工房楽豆屋シリーズ他 |

| 大正2年 | 下條明治郎氏が、大阪天王寺にて「冨士屋製菓」を創業 その後、弊社北野留三郎が、奉公にあがる | |
|---|---|---|
| 昭和28年 | 戦時中、一時中断するも、製造を再開し、「冨士屋製菓」の商号を引き継ぎ、会社を創立する | |
| 昭和40年 | 代表商品「豆味さん」がヒットし、業務を大幅に拡大する | |
| 昭和52年 | 全国菓子博覧会にて「名誉総裁賞」を受賞し、あわせて、2代目社長 北野啓史が代表取締役に就任 | |
| 昭和60年 | 製造設備の充実により、欧州向け輸出が順調に伸長する | |
| 平成3年 | 3代目社長 北野登己郎の入社、と同時に新社屋の竣工 | |
| 平成14年 | 2代目社長 北野啓史が菓子業界への貢献により大阪府より「産業功労賞」を受賞 | |
| 平成15年 | 新シリーズ「ビーンズ工房 楽豆屋」での新業態への展開開始 | |
| 平成19年 | 自社WEBサイト「ビーンズ工房 楽豆屋」を開設 | |
| 平成20年 | 富田林商工会より地域ブランド「富田林ブランド」認定第1号を受ける | |
| 平成22年 | 「雀の玉子」が大阪府より府認定の加工食品の名産品「大阪産(もん)名品」の認定を受ける | |
| 平成23年 | 3代目 北野登己郎が、代表取締役に就任する |